伊藤 智仁 Tomohito Itoh
- 生年月日
- 1970年10月30日
- 身長 / 体重
- 183cm / 85kg
- 出身
- 京都府
- 投打
- 右投げ/右打ち
- ポジション
- 投手
- 経歴
- 京都府花園⾼
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- 三菱⾃動⾞京都に⼊社
バルセロナオリンピック野球⽇本代表に選出、1⼤会27奪三振のギネス記録を作り、⽇本の銅メダル獲得に⼤きく貢献。
ドラフト会議でヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブの3球団が1位指名ヤクルトが交渉権を獲得し⼊団。⼊団時の背番号は20。
対巨⼈戦では8回まで無失点。セ・リーグタイ記録である16奪三振をあげるが0-0のまま迎えた9回裏2死、篠塚選⼿にソロ本塁打を打たれサヨナラ負け。
ひじ痛のため戦線離脱。
シーズン終了まで復帰することはなかったものの、実働3ヶ⽉ながら巨⼈の松井秀喜を抑えて新⼈王を受賞。
ルーキーイヤーでは、150km/hを超えるストレートと⾼速スライダーを武器に
投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。
再び先発に転向。6勝11敗と負け越すが初めて規定投球回数をクリア、リーグ三位の防御率2.72を記録。
背番号を21に変更。
2年連続⾃⼰最多の8勝を挙げ
好成績を残す。
ひじ痛・肩痛が再発。
チームはリーグ優勝・⽇本⼀になるも登板数は1試合に終わる。
コスモスリーグに登板するも、9球⽬に
右肩を亜脱⾅しリハビリに残りシーズンを費やす。
シーズンオフに球団から引退勧告とヤクルト本社への⼊社を勧められるが、現役続⾏を志願。過去最⼤となる88%減の年俸で契約。
秋季コスモスリーグの対巨⼈戦に登板したものの1回で降板。
(かつて最速153km/hを計測したストレートは109km/hにとどまった。)
1992年 バルセロナオリンピック野球⽇本代表に選出、1⼤会27奪三振のギネス記録を作り、⽇本の銅メダル獲得に⼤きく貢献。 |
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1992年 ドラフト会議でヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブの3球団が1位指名ヤクルトが交渉権を獲得し⼊団。⼊団時の背番号は20。 |
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1993年4⽉20⽇ 先発で初登板し7回を10奪三振2失点で勝利投⼿。 |
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1993年6⽉9⽇ ⽯川県⽴野球場 対巨⼈戦では8回まで無失点。セ・リーグタイ記録である16奪三振をあげるが0-0のまま迎えた9回裏2死、篠塚選⼿にソロ本塁打を打たれサヨナラ負け。 |
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1993年7⽉中旬 ひじ痛のため戦線離脱。
シーズン終了まで復帰することはなかったものの、実働3ヶ⽉ながら巨⼈の松井秀喜を抑えて新⼈王を受賞。 |
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1993年 ルーキーイヤーでは、150km/hを超えるストレートと⾼速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。 |
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1994年〜1995年 ひじ痛とルーズショルダーに悩まされ⼀軍登板なし。 |
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1997年 7勝2敗19セーブを記録し
カムバック賞を受賞 |
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1998年 再び先発に転向。6勝11敗と負け越すが初めて規定投球回数をクリア、リーグ三位の防御率2.72を記録。 |
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1999年 背番号を21に変更。 2年連続⾃⼰最多の8勝を挙げ好成績を残す。 |
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2001年 ひじ痛・肩痛が再発、チームはリーグ優勝・⽇本⼀になるも登板数は1試合に終わる。 |
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2002年の秋季 コスモスリーグに登板するも9球⽬に右肩を亜脱⾅しリハビリに残りシーズンを費やす。
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2002年 オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への⼊社を勧められるが現役続⾏を志願、過去最⼤となる88%減の年俸で契約。 |
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2003年10⽉25⽇ 秋季コスモスリーグの対巨⼈戦に登板したものの1回で降板。
(かつて最速153km/hを計測したストレートは109km/hにとどまった。)
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2003年10⽉29⽇ 球団の引退勧告を受け現役を引退。 |
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2004年 ヤクルトの⼆軍投⼿コーチに就任、
背番号は84。 |
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2017年 ベンチを担当したが、同年シーズン終了後退団。 |
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セ・リーグタイ記録 16奪三振 達成直後サヨナラホームラン。
全盛期のピッチング。
ピンポン玉のような神のスライダー。
セ・リーグタイ記録 16奪三振 達成直後サヨナラホームラン。
全盛期のピッチング。
ピンポン玉のような神のスライダー。